岩茸石山

ひとつの命が終わり
その上にまたひとつの命が宿る。

さまざまな連鎖でつながる自然の中で、
生命力と安らぎを横目に、

誰かが言ってた輪廻の話を思い出す。

しばらくすると
そんなことも頭からすっかり消えていた。

何を考えていたのか、自分でもわからなくなる。
何も考えていないわけでもなく、
何を考えていたかを思い出せない。

そんなことがしばしば・・・
でも、それが何だか心地よかったりする。

無心になるとは少し違う、、、
喪心とでも表現するべきか。

言葉で書くとなんだか病気みたいだが、
その時間が逆に自我を育んでいくような大切なことに思う。

岩茸石山 792m

棒ノ嶺

足元を流れていく枯れ葉が、
ふと、目を離した隙に見えなくなった。

流れていく時間と傾いていく影に包まれて
しっとりと湿った風が、さらりと吹き抜けていく
まるで、心を置き去りにしてくように・・・

浮生夢の如し 。

棒ノ嶺 969m

矢倉岳

右足を前に出してみた。
そしたら左足をその前に出したくなった。
気がついたら前に進んでいた。

足を擦りむいた、そしたら赤い血が流れてきた。
気がついたら、瘡蓋になっていた。

自分の意志で生きている中で、
自分の意志とは関係のない生命のチカラで生かされていることに気付いた。

心臓が動いているのも、血液が循環しているのも、自分のチカラじゃない。
何かによって私は生かされている。

授かったものを大切に生かしきること、それは私の義務でもあるのだろう。

矢倉岳 870m

大山

不足の事態が起こってしまう。
「あぁ、ツイてないなぁ。」などと思ってしまったりもするのだけれど、
事柄が起こるには、それが起こるだけの何かしら原因や予兆があるわけで、
原因なく何事も起こるわけではない。

人はそれが唐突に起こったみたいに思ってしまうが、
その原因に気付かぬまま、やり過ごしてきていることがあるに違いない。

ましてや、気付いていながらもそのまま放置して、案の定その結果に陥る場合もある。

すべての現象の発端は己に存在する。

他の何かに責任転嫁したところで解決の糸口にもならないばかりか、
いずれまわりまわって己に返ってくるものである。

その責任や原因は、きっと自分自身にもあるのだ。
落胆するのでなく、嘆き悲しむのでもなく、受け入れること。

皆がその気になればこの世界は少しづつやわらかくなっていくんじゃないか。
そんな気がする。

大山 1252m

三ツ峠山

AからBの過程を予測し、
ある一定時間が経過したところで、
AからBの工程が不可能という判断に至る。

それではC、もしくはDと転換の方向へ思考を移してみる。
あやふやな形状のみ浮遊し、
その先にBからAの構想の上に落ち着く。

そしてそれは、
AからBとはまた違ったものが
BからAの中に転がっていることに気付くことがある。

三ツ峠山 1786m